江口貴勅さん

オセロに似てるな、と思いました。きっかけさえ掴めば一気に色を変えられる

実は江口さんと私は同じ音楽学校出身なんです。一体どこでこんなに差がついたのか(笑)
音楽の話をたくさん聞かせていただくのを楽しみにしつつ、インタビューをスタートします!

有名ゲームやメジャーアーティストへの楽曲提供など、江口さんのプロフィールがあまりに豪華なのですが、中でも特に思い入れのあるアーティストや作品を教えてもらうことはできますか?

SEAMOさんの『マタアイマショウ』、ハマザキコミネさん、どれも全部思い入れがあるからひとつに絞るのは難しいんだけど、あえて挙げるなら中川晃教さんかなあ。僕にとって、レギュラーとして携わった最初のアーティストさんなので。

出会いは中川さんが18歳のとき、今からもう10年以上前のことですが、デビュー直前の業界向けプレゼンライブのようなステージにキーボードプレイヤーとして呼んでもらったのがきっかけです。もともとは違う方が呼ばれてたんだけど、たまたまスケジュールが合わなくて僕が呼ばれたんです。

その後は、中川さんが出演するテレビの歌番組などにはすべて同行しました。制作からライブまで、日本全国一緒に回りましたね。美術館ライブや夏のロックフェス、吹雪の中で凍死しそうな野外ライブなんてのもありました(笑) あれはすごかった。

『I WILL GET YOUR KISS』などのヒット曲を耳にしたことがありますが、中川さんは「歌のうまさが日本人離れしている人」という印象です。

うん、彼のようなタイプの邦人男性ボーカリストはそうそういないと思います。最初から才能のある方でしたね。デビュー前のステージで披露した歌がCDよりもさらにうまくて、後ろで弾いていて驚いたことを覚えています。

あとは、アニメなどの劇伴(サウンドトラック)の仕事も思い入れがありますね。「自分の音楽をつくる」という意味では、アーティストのサポートとはまた違ったやりがいがあります。

劇伴制作のお仕事では、工程の1から100まで関わるんですか?

作曲家によっていろんなスタイルがあると思いますが(米国などでは作曲家がオーケストレーションを別の専門家に依頼するのが一般的)、僕は基本的に全部やります。メロディーをつくり、アレンジしてオーケストラの譜面を書き、レコーディングやミックス、マスタリングのディレクションも……場合によってはミックスやマスタリングまで自分でやることも。

映像やストーリーといった「本編ありき」ではありますが、事前にいくつかのリクエストをいただいた後はこちらに任せてもらう部分が多いので、自分の感じたままに自由にやらせていただいてます。
その音楽が完成するまでの全ての工程に関われるのは、作曲家としてとても幸せなことだし、やりがいを感じます。名前を出してもらえるのも嬉しいですね。

オーケストラアレンジ!? 同じ学校に通っていたのに、いつの間にそんなことができるようになったの?

学校でもちょっとは習ったでしょ!(笑)
僕はもともとオーケストラが好きだったんです。学生時代から今までずっと興味が尽きなかったから、仕事をとおして“走りながら”勉強した感じですね。君も師事していた丸山和範先生には、卒業後にもアドバイスをいただいたりしてお世話になりました。

ちょっと昔話が出たところで、20代の頃のお話を聞かせてください。卒業後すぐに音楽家として活躍されたんですか?

ううん! 色々やりましたよ(笑)
卒業後、まずはサラリーマンを3年半やりました。海外で開発された音楽制作のためのソフトの、ローカライズや販売などを手がける会社に就職したんです。当時、その会社で扱っていたソフトは「ハードディスクに音楽を録音できる画期的なソフト」ということで注目されていました。

会社では、電話でのユーザーサポート窓口業務から商品出荷の梱包、マーケティングの手伝い、ときにはデモンストレーションまでなんでもやりました。
ミュージシャンがライブで使うときにステージ横で待機して万一に備える、なんて仕事もありましたよ。TM NETWORKさんや浅倉大介さんなど、最先端の人たちが使ってくださってましたね。

なかなかやりがいのありそうなお仕事ですが、「3年半」ということは26歳のころに辞められたんですね。

そうですね。扱っているソフトは大好きだったし、とてもやりがいのある仕事で毎日充実してました。だけどそれ以上に、「自分でも音楽をやりたい」っていう気持ちがどうしても捨てられなくて。
今でも忘れられないんですが、最終出勤日が僕の誕生日だったんですよ。26歳になったのと同時に無職(笑)

不安は無かったんですか?

無いといえばウソになるけど、実は少しだけ仕事のあてがあったんです。
もう時効だから言っちゃうけど、サラリーマンをやりつつ会社に内緒で音楽制作のバイトをしていたので、退職後はその仕事を継続しました。
もちろん、ダブルワークはハードでしたよ。昼間は会社の仕事をフルパワーでがんばって、夜は徹夜で作曲して、寝ずに会社に行って休み時間に点滴打って……みたいな。当時は若かったから何とかなったんだと思います。

うわあ、大変そう。でもしっかり準備してたんですね! では会社を辞めたあとも生活に困るようなことは無かった?

いや、あった(笑)
無名の僕がアレンジの仕事を1、2曲やらせてもらったところで、それだけで食べていくのは無理でしたね。

あと、当時はバンド活動もしてたんですよ。バンドを3つやってて、そちらもプロ志向でがんばってましたが、バンドはお金がかかるんだよね。ほとんど持ち出しで。
この時期が3年くらいでしょうか。
今は時間の流れが速いので3年も同じ場所にしがみついてたらダメかもしれないけど、当時はまだ「石の上にも三年」のことわざが納得できる時代だった。

苦しい生活を3年も続けていると、途中でモチベーションが下がっちゃうことは無いんですか?

ありますね。バンドも事務所に所属する直前までは何度かいったし、メジャーアーティストのレコーディングにバンドごと参加したりもしたんだけど、デビューに向けてなかなか思うように進展しなかった。いろんなことがあって、考えに考えた末、28歳のときにバンドでデビューするのを諦めました。
僕以外のメンバーもみんな、先の見えないところで苦しんでたと思います。

そもそも僕は、30歳になって芽が出なかったら音楽の仕事は辞めようと思ってました。僕の両親は音楽の業界のことは何も分からなかったから、田舎を出て東京でフラフラしている僕を心配しつつもやりたいようにやらせてくれていたんですが、30過ぎたらさすがに、ね(苦笑)

またこの時期に、自分は演奏より書く方が向いてるんじゃないか、ということに何となく気づきました。自分自身が演奏することにそれほどこだわりがなくなってきて、何かを“残す”行為の方に気持ちがシフトしていったんですね。
バンド自体にはかなり思い入れが強かったから、やめた後はしばらく抜け殻でしたが、1年くらいかけて少しずつ気持ちを切り替えていった感じです。

30歳を目前にして方向転換したわけですね。 当時は、経済的にも心理的にもかなり厳しかったと思います。その状況から現在の活躍につながるきっかけはあったんですか?

きっかけは、ゲームのタイトル曲を作らせてもらうようになったことですね。プロフィールに堂々と書ける作品ができたことで、デモテープを聴いてもらう機会がぐっと増えたんです。

オセロに似てるな、と思いました。たとえそれまで負けっぱなしでも、チャンスを掴めば一気に色を変えられるんだ、と。
ひとつひとつの仕事を大切にして、出し惜しみしたり手を抜いたりせずコツコツとがんばっていれば、見てくれている人がきっといる。そう信じてあきらめずに続けていると、水面下で着実に積み重なって、ある日突然、目に見えるカタチとなって一気に現れる。逆転できると思うんです。

インタビュー/編集 千貫りこ

Photography by Mito Nakatani

Profile

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江口 貴勅(えぐち たかひと)

音楽家(作曲/編曲/キーボード/音楽プロデュース)

ゲーム•アニメ•映画•ドラマのサウンドトラックや主題歌、アーティストへの楽曲提供•ライブサポートなど、これまで数千曲以上を手掛ける。代表作「機動戦士ガンダムSEED DESTINY」「FINALFANTASY X‐2」「ソニックシリーズ」 SEAMOの「マタアイマショウ」倖田來未「1000の言葉」ドラマ「陽はまた昇る」など。
ナラダ・マイケル・ウォールデンがプロデュースしたアルバムにはスティービー・ワンダー、スティング、エンヤ、TAKE6、矢沢永吉らの楽曲と共に自作曲が収録された。近年はBoyz II Men&NewYork Symphonic Ensembleのジャパンツアー、YUKIのコンサートツアーのオーケストラアレンジなど話題作を手掛けた。

http://blog.takahito-eguchi.com/

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